クソみたいな毎日の出口は美しさかもしれない

秋は炊き込みご飯をつくりたくなる。

何が旬かはわからないが、きのこはたぶん旬だろうしニンジンもごぼうも心なしかいつもよりもおいしい気がする。というわけでこの時期は、毎年炊き込みご飯をつくっている。

 

具材は人気どころの、にんじんやしめじ、舞茸、ごぼう、鶏肉、それからたまには油揚げあたりで、とりたてて大したことはないが、強いて言えばとにかく具材が多い。5.5合炊きを3合で炊いてもいつも炊飯不足で再加熱、結局べちゃべちゃのご飯で妥協するのが常であった。

ところが今年は購入後10年にして炊飯器のメニューに炊き込みご飯モードがあることを発見したので、これを活用。既に炊き込みに2度も成功している。これもまた、メーカーHITACHI様々である。

 

今週は休職期間の延長を相談する診察があったせいか、はたまた気圧のせいか、いつもよりも沈み込みが大きかった。長期休暇願いを書く度にマイナスの感情が出てしまう。

急に寒くなって眠れないことが増えたので、カフェインを昼間にとることは極力控えた。

 

フジロッ久(仮)の藤原さんから久し振りにLINEが来た。今日、ソロライブがあるから来ないか?とのこと。

しばらく連絡していなかった人にわざわざ連絡してくれた気持ちを想像した。この人のことだから、あまり考えずに勢いで送ったところもあるのかもしれないが、自分に置き換えて考えるとメンタル疾患患者にLINEするというのはそれなりのハードルだと思う。

 

大きな音が出る場所はしばらく避けていたが、もうそろそろ良いかもしれないし、この場に行った後の変化も楽しみに思えた。--寒空の雨のなか、渋谷に向かった。

 

フジロッ久(仮)の休止期間も、狭間のライブや制作物、インスタライブなど活動はなんだかんだ追っていたし、前回の秋葉原での復帰ライブもオンラインではあるが視聴した(直前まで迷ったがどうしても会場には行けなかった)。それでも新曲群には追いついているつもりだ。dear punks、波紋、変なおじさん、man song。

率直に言って、数年のブランクで藤原さんの歌唱力は間違いなく下がったし、いまのバンドにもかつての成熟はない。だが、藤原さんの作家性は錆び付いてない。特に2曲目にやった曲、そこから出るな、みたいなことを繰り返すあの曲は、いまの自分に刺さるものがあった。

そして、その後にやったシュプレヒコール。ポエットリーディングから出発して、あらゆら厭世感の表現を心の下水管に詰め込んで、「クソみたいな毎日」のリピートに着陸させ、あの美しいイントロにつなぐ接続詞。素晴らしかった。

「クソみたいな毎日」は、身体と心を壊すきっかけとなったあの日常なのか、それとも治療する日々である微弱な振動のいまか。そのどちらなのだろうか。もしかしたらそのどちらでもないかもしれない。あれを聴けただけで、つまり3曲目で、この日の私のライブは完成したのかもしれなかった。藤原さんのライブが終わった後はすぐに帰宅した。夜の道玄坂を歩くのも、随分久し振りだった。家に帰って眠った。

 

金曜日は久し振りに両親と池袋のイタリアンでランチをした。それなりにおいしかった。気分転換にはなったがいささか疲れてしまう。寒かったので家に帰って眠った。

 

いくつかの喫茶店で、中村哲「天、共に在り」を読む。先日、ポレポレ東中野にて映画を観たため、概ねストーリーは頭に入っていた。緒方正人や永井隆博士のように、人生に赦しや加害性を背負い込む人のストーリーは着地する思想がどこか似ている。この人のような胆力は、一体どうやったら身につくのだろうか。

 

さくらももこ「またたび」を読み返す。彼女の旅行記はそれほど面白味がない。彼女の自堕落さは親しみがあるものの、それに引っ張られて文章の感性も鈍っているような気がしてあまり好みではない。企画も鋭さがない。

 

やはり「そういうふうにできている」、「たいのおかしら」、「ひとりずもう」あたりが好みだ。ついに筆が走りまくり回転数をあげていきオーバーヒートしそうなあの感覚が、たまらなく面白い。

 

しばらく気分が沈んでいたのをもうそろそろ戻したいという気持ちになり、10月10日、三連休の最終日は再び新宿御苑へ絵を描きに向かった。

インターネットで見つけた絵画を模写した。ただの模写に過ぎないとしても、静かに気持ちが立ち上がる感覚があった。なにかをつくるということは自分を鼓舞する力があるらしい。

 

まだ、ふとした瞬間に仕事の日々を思い出してしまう。その度に、虐げられたような気持ちになる。この日々からいつか抜け出せるのだろうか。

 

この日々に意味があるのかはわからないが、いつかこの出口が美しさだといい。