壁に生えた黒い黴は

家事への逃避をだいたいし尽くして、休職中のやることがなくなってしまったので、手持ち無沙汰な日々が始まった。休職中の家事は、逃避であり、思考の留保であり、生活の着色でもあった。

 

夏の間に部屋の壁に生えた黒い黴は、自分の心にまとわりついたずるさや怠惰のようにも思えた。もしかしたら、うつで働き続けることを止めたあの瞬間、自分の心には怠惰や欺瞞がこびりついてしまったのかもしれない。漂白剤を壁に吹き掛けるように、自分のずるさもきれいに拭き上げられたらどんなに気持ちいいだろう。勘違いであって欲しい。

 

自分の中に問いがいくつかあって、多極的に沈殿するそれらの問いを掬い上げ言語化し、思考を整理して自分なりに回答する。休み、労り、癒しながら、そういうことに取り組むべきだとやっと分かってきた。

 

夜、散歩しながら、働くことについて思索していたら、会社を辞める一歩手前まで歩を進めていた。チェスのポーンのような前進だ。

 

数日に一冊、本を読む日々だ。たくさん本を読むのは自分の悩みに対する答えを求めているからであり、またもて余す時間をやりすごすためだが、自分の問いに対する回答はどの本にもなかった。うつは200色ある。自分自身で問いを立てて、自分自身で回答するしかない。

 

休職中の家事は、心の傷にかさぶたができる前に安易に結論を出さないように保留する猶予でもあった。

 

家事は生活を着色した。例えばスーパーの棚に国産レモンが並び始めたのでレモンシロップを作ったり、安く売られていた広島県産の牡蠣のオリーブオイル漬けをつくったりする度に、生活に季節感が宿り、色づいていった。

 

あれだけ懸命に働いた結果が、うつによる休職だったというのは人生の理不尽や不条理だと思う。平等に不平等な理不尽や不条理について考える。この理不尽に絶望せずに、その苦みを受容して味わえるような視点こそが必要だ。

 

一度うつになってから、思考に根拠のない不信が芽生えてしまうようになった。その弱気さゆえにいろんなことがうまく行かなくなる。

 

今日は歯医者と精神科の診察だった。ぶりが半額だったのでぶりの照り焼きをつくった。大根の煮物も作ったのだが、作り終わったら理由もなく急に気味の悪いものに感じて、食べられなかった。捨ててしまうかもしれない。

 

レモンシロップからレモンを取り出してシロップを瓶に詰めた。みずみずしくて爽やかな甘さの外周に皮の苦味が感じられて、とてもおいしい。

 

美味しんぼに10年寝かせたさくらんぼのシロップが出てきてから、どうしてもさくらんぼシロップのジュースが飲みたくて、ジファールのさくらんぼシロップを小川珈琲の通販で買った。さくらんぼの香りはあまりよく分からないが、おいしいのは確かだ。

 

最近は風呂に入ってからハーブティーを淹れてから眠ることにしているんだけれど、眠る頃になると食欲が頭をもたげる。昨夜は抗うつ薬を飲んで意識混濁しながら、空腹におされて夜中3時過ぎに、うどん2玉、ラーメン1玉を貪っていた。まるで兼末健次郎の兄みたいだった。

 

人生観として自分を成長させることというのはどうやら普遍的根元的なものとしてありそうなのだけど、私はその価値を自分自身にも敷衍したいのだろうか。それから、成長とストレスに対峙することには相関があるけれど、抑うつに苦しむ人は成長についてどう向き合えばいいのかということを考えている。

 

かつては自分自身も確かに成長したいという人生観を持っていたがいつのまにかその熱はかなり冷めてしまった。他人のために貢献したい欲もいつの間にかなぜだか冷えてしまった。いまは自分がどうしたいのかいまいちよくわからない。

 

ストレスのない人生なんてないのだし受け流しながらやっていくしかないはずだ。落ちたときにダメだと言えて、周りの人に頼れて、なるべく働くのを中止しない範囲に収めるようになるしかない。

 

一度KOされたボクサーがそれ以降何度も簡単にKOされるように、うつの休職にもそれに似たなにかがあるのだと思う。だから再発して再休職率が高い。身体的心理的な要因は両方ある。

 

個性とか人間とか人生とかなにか大きくて大切なものに対峙する弱くて小さい自分自身がせめて大切な場面で逃げ出さずに大切なことを大切だと思える人間でありたい。

 

うつの本はたくさん読んだけど、なかなか「自分の問い」に答えてくれる本はない。うつは200色ある。

 

一ヶ月くらい前から、部屋にコバエが出るようになってしまった。粘着テープのコロコロで轢き殺して捕獲しているのだが、なかなか根絶できない。もう数百匹は殺生したはずだ。