死生観の更新(多孔質の無としての死)

昨日は山手線を一周した。11時間20分、51㎞かけて歩いた。

その間に、死生観を更新できたので残しておきたい。死についてこんなに考える年齢になったんだなぁ。

 

私は、死は輪廻や再生より無だという意見に概ね賛成なんだけど、でも死は完全な無ではないんじゃないか、と最近思う。


生の苦しみは閉じられているけど我々にはいくつか対抗手段がある(①忘却、②適応、③人とのつながり)のと同じように、死後の喜びも閉じられるけどいくつか抜け穴があると考えた方が、死は生を反転させるという構図が美しいから。

 

死は生を反転させるという構図を根拠なく信じる気持ちには論理の飛躍があるかもしれないが、私はそう信じているので、その前提で話を進めます。

 

死後の喜びの抜け穴ということについてなるべくわかりやすく言うと、死んだ後は喜びも苦しみもなにもかも消えてなくなるわけではなく、たとえばよく言われる「生きている人が死んだ人のことを思い出すと天国で花が咲いたり桜吹雪が起こる」みたいなイメージです。そういう喜びの抜け穴が、無になった死の後にもあるんじゃないかなと思う。
これはわかりやすいイメージであって、私は死に対してここまでメルヘンなイメージは持っていないけど。

 

死後に新たな苦しみから開かれる(解放される)ように、死後に新たな喜びは得られない(閉じる)が、もしかしたら死後には完結した自己の世界で、生前に得た喜びを思い出したり再体験して味わえたりする仕組みがあるんじゃないのかな、といまは思ってる。

 

簡単に図示するとこんな感じのイメージだ。

 

 

そうだとするなら、死は密閉された無ではない。穴が開いている多孔質の無としての死は、喜びを完全にシャットダウンしないという意味で希望や救いがある。そうなると、やはり我々は生きている以上、苦しみにとらわれすぎずに喜びの方角を向いて生きた方がいい、という結論になる。
生の側からみても死の側からみても、苦しみにとらわれずに、喜びを探して生きた方がいいという帰結を迎える。

 

なお、無を信じている私でも、輪廻転生や再生の考え方も救いがあって素敵なことだと思うし、何万年も人類が続くのなら、全くおんなじ細胞の組み合わせ・配列の身体が出来上がることもひょっとするとあるかもしれない。記憶は細胞に宿るのではなく細胞の関係に宿るので、そういう意味で輪廻や再生もないとは言えない。でもそれは確率があまりに小さいので、人間全員が必ず通れる道ではないと私は思う。

 

死は無だが、密閉された真空の無ではなく、穴が開いている多孔質の無だという考え方は、自分で考えた死生観にしては、なかなか救いがあって悪くないじゃないか。

 

死にたい死にたいと苦しんでいた人間が、こんなふうに死をとらえられるようになったのだから、うつになった意味があったなといまは思う。私生活は問題なく送れるようになって、着実に回復している。

 

幸せに生きたいな、といまは願っている。