そっくりさんから、父のヘイトを考える

この世にヘイトがはびこっている。ヘイトについて、「自分に似た人(そっくりさん)」を題材に書いてみたい。というのも、ヘイトの本質はちがいに対する態度であって、それは「おなじとちがい」に関する認識の浅さから生まれてくるものだと思う。おなじもちがいも内包する「似ている」は、その曖昧さゆえに、四角四面の閉塞に風を通すかもしれない、そう思った。

ヘイトは身近だった。私の父はいつからか、中国や韓国、その国籍を持っている人へのヘイトを繰り返すようになった。恥ずかしいことだが、団塊の世代がこうなっていくことは別に珍しくはないと思う。記憶している限りは、父が仕事を辞め、パソコンの前にはりつくようになってからだ。2ちゃんねるばかり見ていたのだろう。当時大学生だった私は、最も憎む行為のひとつであるヘイトを父が食卓に投げる日常を処理できず、父を軽蔑することしかできなかった。育ててくれた感謝や父への愛を、その軽蔑と同じ心に入れておくことは簡単ではない。ヘイトと食卓は食い合わせが悪いようで、脳からは#N/Aしか返ってこない。

いまになれば、仕事を辞めて社会と繋がれない焦燥感や承認欲求が心の弱さと結び付いたのだとわかる。他者を蔑むことで得られる空虚な自尊心や、当時のネット世界に盛んだったヘイトに安易に逃げたのだろう。そしていまも、父に対する解決に向けた根本的な行動はとれていない点では、私は変われていない。

さて、私はいつからか、「皇太子に似ている」と言われるようになった。これは今上天皇徳仁を指している。いつのまにか、自分でも笑った顔が似ていると思うようになった。日本の象徴に似ているというのは誇らしいような、しかし率直に言えば、多感な時期には少し芋すぎるような印象を持ったことも事実だ。高校生や大学生のとき特有の気恥ずかしさ。どうせなら綾野剛にでも似ていたい気持ちが幾ばくかあった。(いまでは今上天皇のことが好きなので、悪くない心持ちだ。登山する山々で彼の足跡を見つける度に、先達に向ける憧れの眼差しが強まっていく。)

大学5年生の頃、寝起きになんとなしに、NHKで旅番組を見ていた。これは伊原剛志という俳優が中国の内陸部を敷かれている鉄道を旅するという番組だった。

そこで、中国の鉄道に、私にそっくりな子どもが乗っていた。自分が思うのだから、ほんとうにそっくりだった。学校のジャージ姿の彼は、その俳優からインタビューを受けていた。15歳だそうだ。実に芋っぽく、まさに私だ。ひどく緊張しているのか人見知りなのか、その恥ずかしそうな仕草も表情も、そこからうかがえる内気さも、モブキャラみたいな風体も、そのすべてが私としか思えなかった。しかし私は日本にいて、中国の列車でインタビューを受けた覚えはない。

インタビューが終わる頃、軽く体温の上昇を感じた。私の遠い出自が中国にあることについて、ほとんど疑わなくなっていた。根拠は体験がまかなっていた。その少年に対しては、いとこに対する親近感と同等のものを感じていた。思えば、休学中に外国人ゲストハウスで住み込みして働いていたときも、大抵中国人と間違えられた。しかも私の名字には中国のある宗教における重要な思想が組まれている。私の出自は大陸にあることも、納得できた。

番組を後から調べてみると、おそらくはNHKのBS、中国の成昆鉄道(四川の成都雲南昆明)の旅番組だった。「走れ大峡谷を縫(ぬ)って ~中国・成昆鉄道1100キロ」。さらに言えば2001年の番組なので、世界で一番似ている彼は、実の兄よりも似ている彼は、私とほぼ同い年のはずなのだ。親近感は兄弟に向けるものと同等以上にまで上がった。死ぬまでに彼に会ってみたくすらなった。

この体験は自身の出自、アイデンティティに強く影響を与えた。私の父親は自身が日本の出自であると疑っていない。家系図を持ち出して誇っていたことがあったからだ。珍しい名字だが、日本のある地域には一定数存在している。そして確かに私は日本の象徴に似ている。しかし、この世界で私に最も似ている人は、中国にいる。

たった数世代の血縁を辿った国籍という概念とは、果たして何なのか。なんと曖昧なことか。忌野清志郎がジョンレノンを借りて「imagine」を歌ったことの意味を、それからよく考えるようになった。清志郎が憎んだものがわかって、目指した世界が近くなった気がした。この態度を、あなたは青いと嘲るだろうか。おなじとはなにか。ちがいとはなにか。好きとか、きらいとか。

食卓の中で、父親のヘイトは日に日に強まっていった。野菜炒めを越えて、サンマの塩焼きを越えて、味噌汁、白米、納豆、おひたし、キムチを越えて。ヘイトはやすやすとお皿を越えた。グローバル化はここにも及んだ。頼むから深いクレバスにでも落っこちてくれ。しかしその越境を止めることはできなかった。それは私が実家を出るまで、いや出た後も続いていた。

優劣のない場所で優劣をつけようとするのは、居場所がなかったからかもしれない。世界を知らなかったからかもしれない。しかし父のヘイトを止められなかった弱さは、私にある。ヘイトを繁殖させたのは私で、その意味ではいまなら緒方正人のように、ヘイトは私であった、と言えるのだ。「ヒトは自ら憎むものになる」、かつて誰かが書いた言葉を思い出す。

私はいま、在日韓国人と付き合っている。あえて言うが、なにも変じゃない、普通だ。このままずっと付き合い続けるか結婚するかなんて、正直わからない。ただし、その選択に彼女の出自は何一つ関係がない。生活習慣は少し違うが、それ以外はべつに普通だ。面白いことがあれば笑うし、悲しければ泣く。同じように仕事をして、同じようにセックスする。恐らく、彼女の出自を知れば父は反対するだろう。そこでぼくは父のヘイトと正面から向き合うことになる。この世はでっかい宝島だったはずだ。21世紀だぞ、皇帝派と教皇派の戯曲を誰が書いた。ブルースが加速していく。憲法12条を思い出せ。(この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。)

先日、彼女の家族がサムゲタンを作ってくれた。文化は、海や山、国境を越える。その強さをヘイトは越えられない。そう信じている。

水俣のもやい直しのように、知ることがヘイトに対する唯一の有効手段だと知っている。緒方正人がチッソの前でござ敷いて焼酎飲んだみたいに。長崎で永井隆博士が布団のなかでも諦めずに執筆しつづけたみたいに。忌野清志郎がJUMPして歌い続けたみたいに。

私は、自分に似ている人と、かっこいい人を知っている。そして、軽薄で愛すべき父親も知っている。あのとき、一緒に旅番組を見ていた父に、たった一言、「俺に似てない?」と声を掛けていただけで、父は変わっていただろうか。たった一言、7音だけのちがい。似ているようで全くちがう、そっくりな未来を、7年先から思う。枯らしてしまった過去、後悔がある。

日曜日の朝、久しぶりに父と会ってきた。お土産だとしじみをくれた。味噌汁の作り方を一から教えてくれた。もちろん知っていたが頷いて聞いた。祖母の介護、私の仕事の話などをした。子どもの頃の話もした。ヘイトは出なかった。嫌いなところがあったとしても、育ててくれた感謝を、やはりなくすことはできない。

ヘイトをなくしたいと、思っている。