朴訥に声に出す

母親が入院したようで、お見舞いに行った。無事に手術は成功した。ありきたりすぎる修辞だが、こんなに小さかっただろうか。老いを痛感する。

父親への不満を聞いた。面会にやってくるものの、規定の面会時間を三日連続で無視し、看護師にたしなめられたそうだ。頑固な父親らしすぎて笑ってしまった。歳を寄る度に頑なさを増していく。どうか父へ、生きやすくあれ。

周りに迷惑を掛けて困ったと不満を漏らしつつ、しかし、聞いていたラジオに視線を移し、ラジオを届けてくれたことに言い及んだ。「いまは本が読めないから。暇だろうって。こういうところもあるのよね」と話した言葉には、嫌いになれないやさしさが宿っていて、情の定義のようだった。愛がなんだ。愛とはいったいなんだ。

私の家族は決して、愛がいつも溢れる100点の家庭ではなかったが(そんな家庭がどれだけあるのか知らないが)、それでも、兄と私を不自由なく育ててくれただけで、感謝している。
山の話でひとしきり盛り上がってから、帰ってきた。深刻な病気ではなかったが、ひとまず元気そうでよかった。

帰り道、池袋西口公園に寄った。11月のリニューアルに向けた工事をしていた。その横に段ボールを敷いて、決して小綺麗とは言いがたい、歯の抜けたようなおじいちゃんふたりが将棋を指していた。あえてポールで区画された立入禁止区域の内側で、人通りの多い場所の真隣に構えたその一畳もないスペースには、芸術劇場にはない種類の文化、生の味がする営みがあって、おれはあのふたりが好きだった。指している表情の嬉しそうなこと。こういう営みを迫害せず、また信仰もせず。文化都市とはなんなのか、その文化はなにを指すのか。おれはその哲学を持っていたい。

歩きながらうつくしきひかりを聞く。歌詞を不自然なくらい、できるかぎり朴訥な感じで声に出して読むという行為を繰り返した。歌詞の秀逸さがよく分かった。朴訥な言葉を反芻するうちに、歩きながら泣いてしまう。不自然なくらいの朴訥さは不思議と心に刺さっていく。


影の縁 ぎりぎりを歩く 淡い闇 踏まないように
ありふれた言葉をたどる 余計な韻を踏まないように

傷つけ合う すれちがう言葉に馴れないこと
こっそりと祈ってるよ 綺麗事じゃなくて